母親に次いで親父も永眠した。大往生だった。
親父は半年ほど前に夜間せん妄を起こして転倒したままなのがみつかり入院した。その後肺炎になり、悪化して膿胸になってしまった。懸命に努力してくれた医師のおかげでなんとか治ったら次はなんとコロナに感染してしまった。
渡航制限が厳しい中ようやくアメリカから来日してきた自分は会うこともできずただ座して待つ日だった。
だが親父はそのコロナの深淵からも三週間かけて戻ってきた。そして検査で陰性になった親父に自分はようやく会う事ができた。その時の経験がある商社マンの記憶というエッセイだ。
そしてさらに数週間後、親父はまるで自分で決めたかのように天寿を全うした。
親父は肺炎の治療中に嚥下できなくなり、エンディングノートで延命治療を拒否していたので胃ろうもしなかった。だから点滴と生命力だけで肺炎もコロナも克服したことになる。
病気知らずだった親父は昔から健康オタクで、自分だけの健康食を作ったりしていた。入院する間際まで米麹で甘酒を作ったりもろみ酢だのを飲んでいたようだ。
この生命力はもしやあの健康オタクが良かったのだろうか、と見直す思いだ。
親父は商社マンとしていろいろな国に行ったり住んだりした。日本人の殻に閉じこもる事を嫌い、行った先の文化を積極的に取り入れようとする人だった。住んだ国の事を勉強し、その国の人たちと付き合い、後年そういう方達がよく日本へ来て会ったりしていた。
住んでいる国の自動車しか買わないことにもこだわっていた。だからアメリカでは日本でヤーさんが乗るようなでっかいアメ車を乗り回してた。
親が自分をアメリカにおいて帰国したので当時十代の自分がそのアメ車を受け継いだが、あの頃のアメ車は最低の品質で、燃費も最悪で故障ばかりだった。だから日本車に買い替えてヤーさん見習いは卒業した。
親父には悪いが正直これはあまり意味の無いこだわりだったと思う。
そんなこだわりがある一方で親父は旧来の考え方だの慣習だのにとらわれない人だった。特に自分のせいで周囲を縛るような慣習をとても嫌い、自分の死後に大袈裟な葬式なんかしてくれるな、とよく言っていた。
親父が残したエンディングノートには、
死者は生者を煩わすべきでない。
墓も仏壇も法事も要らない。
火葬の後お骨も持って帰らなくていい。
自分は皆の心の中にいるだけだ。
小さな写真でも置いてたまに思い出してください。
と書かれている。
ちょっとカッコつけすぎだが、柔和に見えて自分の信念に頑なで譲らないのが親父だった。
長年の間、親父とは少なくとも月に1, 2回はビデオ通話していた。笑いまじりの近況報告の合間に、親が認知症になったらとか、死んでしまったらという真面目な話も時折していた。
そんな会話の中で、外国住まいの自分は親の葬式に間に合わないだろう、と話すと葬式なんか要らないし、お前はお前のやり方で想ってくれればいいんだ、と言ってくれた。
今の時代は葬式を会場からビデオ通話で中継してもらうこともできる。だが不仲の妹が私達だけで静かに父の葬儀をさせてくれ、と言ってきたこともあり、葬儀の時間はアメリカの自宅で親父の写真を飾り、親父の好きだったアリアをかけ親父の書いた文章や日記を読んですごした。親父が望んだ通りだったと思う。
日本の親にその時が来ても間に合わないし葬式にも出れないというのは在外日本人には切実な問題だろう。どうやったら親の事を後悔せずに済むのか。親だって自分のことで子供に後悔なんてして欲しくないに決まっている。
自分は最後は親父と話しあった通りにできた。もちろん悲しくはあるが後悔はない。
親父が好きだったオペラを聴きながら、死者は生者を煩わすべからずとはこういう事なのだな、と想っている。